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sense of wonder
不思議さを感じることのできる、こころの不思議。
その謎を探るような日々の足あとを綴ります。

「Bellissima」 監督:ルキノ・ヴィスコンティ 原作:チェーザレ・ザバッティーニ 1951 / イタリア 横浜、今夜は涼しい風が吹いております。 ふんわりと欠けた月がとても美しい夜、お盆休みもあとすこうしで終わります、 皆様如何お過ごしでしょうか。 先週末からの夏休み、いくつかの美術展にゆく時間や、懐かしい友人と会う時間を頂き、 ゆったりと豊かな時間を与えられた時となりました。 表題の「Bellissima」は、お休みに入る前に、大学で学生と観た映画です。 かつて学生だったころ、 「シロマクキネマ」という、有効ボードに白い紙(または布など)を貼り、 映像を映して映画を観るの会(サークル)を友人、助手さんと愉しんでおりました。

パソコン独特の画面(大きさ、光etc)では味わうことの出来ない、スクリーンでの空間で観てみたい!というタイトルを流すのです。 大学(学校)という施設は、空間や機材、そして時間の流れやそこにいるヒトに至るまで、 あらゆる面において豊かであり、一度卒業してから戻ると、改めて実感することであります。 普段美術館で顔を合わせる学生に、一緒に映画をスクリーンに映して観ない?と話しかけたのは、 シロマクキネマをもう一度したいな・・・ さらに言うと、もう劇場ではなかなか上映しない好きな映画を、スクリーンで観たいな・・・ という私のとっても個人的な希望があって、声をかけてみたのでした。 ヴィスコンティ監督はイタリア映画の中でも大変有名な巨匠、 「郵便配達は二度ベルを鳴らす」、「ベニスに死す」など 例え観たことは無くても題名は知っている、というヒトも多いのではないかしら。 シロマクキネマでも、彼の作品「ルートヴィヒ」を上映したのはとても貴重な体験でした。 非常に長い映画ですが、スクリーンで観る世界は、美しい映像がとても記憶に残ります。 今回の「Bellissima」は、人情喜劇、私がミラノで生活をして、イタリアを好きになった「イタリアらしい」側面が描かれている映画なのです。 映画が上映された1951年は、「ネオレアリズモ」というイタリア芸術界の動きの中で、 当時のイタリア(ローマ)の生活、社会がリアルに表現されているのですが、現代ならばふうん、そうだったの・・・とぼんやり観ることが出来ても、 当時の社会を考えれば(たとえばこの映画の中で、「映画製作現場」の裏側のリアルさが表現されていること)、 笑えないほどにリアルだったのかもしれません。 そうは言ってもコメディ、随所でクスリと笑ってしまうこと、結果的にリアルな世界をただ表現したいだけではない、 別のテーマが芯であるということ、とてもファンタジーを感じる素敵な映画なのです。 白と黒の美しい映像の世界、不思議な鏡や建築物の表現にうっとり、 改めて大画面で観ることで、これまでのパソコンで観ていた感覚とは大きく異なる、 初めて観たかのような新鮮な時となりました。 (なんといっても映画は、劇場という環境を前提に作られているのだもの!) 次はどうしようかな?と今から愉しみなのですが、もうすこうし、ヴィスコンティ作品を深く掘り下げてゆきたいところ。 とても元気な学生が、準備からおやつまで、素敵な空間と時間つくりを手伝ってくださったこと、とても新鮮で、すてきでした。 大学(女子美)には、純粋にモノを作ることを愛するひと(学生)が沢山いるのだもの、与えられている環境に、感謝して。



夏至が過ぎ去りました。

この時季にふと過る風景は、parisのFete de la Musiqueの様子。

町中が音楽祭となって、一晩中賑やかに過ぎてゆくのですね。

私は特に目当てのコンサートなどを決めずに、友人とふらふら町を歩いて、気になる路上アーティストの前で足を止め、

お酒を飲みながら、弾き語りの音を聞きつつ、お喋りをして過ごしたのでした。

音楽とともに刻まれる鮮明な記憶は、日を、歳を重ねるごとに増えてゆくもの、

たまに古い記憶を取り出してみる愉しみ・・・うふふ、きっと誰にでもある、静かな夜の過ごし方のひとつかしらん。


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今年、庭の梅の木は当たり年なのか、豊かな実を大きなかご3ついっぱいにつけておりました。

(まだ今朝も落ちていたので、さらに増えるかもしれません・・・)

この梅は、今年の1月の記事に載せた赤い蕾の姿をしておりました。

これが大量のジャムとなって、我が家の冷蔵庫に保存されております・・・。



梅雨の湿気の多いこの時季、この梅ジャムを、炭酸水とハチミツとともに頂きますと、

はっと目の覚める甘酸っぱい濃厚な味がやみつきになりそうです・・・。



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こんばんは(にっぽん時間にて)、外は静かに雨が降っています。

紫陽花の季節となりました。職場である美術館のそばや、電車などの移動空間にて、可愛らしく咲いている姿を見かけます。


ミラノから帰国し、今の職場へお仕事のお話を頂き、数年ぶりに母校へ訪れたのが6月6日と、ちょうど一年前。

時の流れの早い、遅い・・・とは本当に、置かれている環境・立ち場によって移ろう感覚的なもの、

あらもう6月、早いですね!というせりふ(他愛無い会話)が、つい、こぼれるカレンダー上での印象は、

葉の色の移ろいや雲の動き、あるいは地球の裏側を意識するとき、ぼんやりと薄れてゆくのが分かります・・・。

カレンダーあるいは時計の時間軸を、「大体の目安」という感覚で捉えているヒトが多い国もあるのです(例えばイタリア)。

それはもう、例えばメトロの時刻表はあって無いようなもの、町中の時計はほぼ合っていないetc…日常がそう、語りかけているのです。

与えられている環境に柔軟に溶け込みながら、異なる時間軸を意識すること(愉しむこと?)は、

日ごと、そして一年という月日を豊かにするのではないかしら、と思うのです。


つい1ヶ月と少し前に、誕生日を迎えたのですが、にっぽんで迎えるのは、じつに3年ぶり。

すこうし離れたところに住んでいる妹から、サプライズでケーキが届いたり、

出勤日では無い同僚が(これもまたサプライズ)職場へ贈り物を持って来てくださったりと、

大切な記憶の一日となりました。

新しい歳を、心機一転!ではなくて、

前の2回をミラノにて、その前をスイスにて迎えた記憶へふんわりと、自然に重なるように・・・、

大切にしてゆきたいと思いつつ、過ごしております。



あら、こうして言葉を探して綴っているうちに、真夜中の雨はあがったようす。


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閉館後の美術館ロビー、夕暮れ時。


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