Mezzanotte, quando si è nelle tenebre fitte insieme la bella luna splende, la gente dall'altra parte del mondo è sotto la luce del sole. Così, terrò sempre cara la ricchezza immaginazione e capisco le cose sotto vari aspetti, e poi provo trovare la cosa più importante. È il cuore di ringraziamènto. Ecco, questo è molto semplice.
3日ほど前から、本格的に秋の気配を感じておりますが、やっと・・・という感覚。 残暑は厳しく、長かったですね、ひと夏が過ぎ去ろうとしている瞬間、皆様如何お過ごしでしょうか。 ・・・というようなことを書いていると、すぐに地球の裏側あたりの国のことが頭をよぎるのです。 つまり、もうとっくに秋が訪れているであろうParis, そしてParisよりは遅れつつ、もう秋本番を迎えているであろうMilano。 残暑は厳しかったですね、という表現に、 向こうに住んでいるヒトからすれば、「もうとっくに寒いですよ!」と呟くヒトもいるかもしれません。 同じ時を生きている人のいる、別の場所(訪れたことがある・住んだことがある・未知の世界etc…)をイメージすることは、 ひとつの物事に対していくつかの角度から見つめること、 考察することへの、小さなきっかけのひとつになることもあるでしょう。 時の流れも、言葉も、文化も異なるところに生きているヒト達が、同じ今を生きているということと、 何気ない、そして、当たり前ではない日常がリンクしていると意識することは、 窓を開けて風を入れるように、むつかしいことではないですね。 ・・・というようなことをイタリア語で書こうとして、色々と縮小して大分シンプルにまとめ(笑)、 さらにニュアンスまで変更し、上記のような文章にな(ってしま)ったのですね。 外国に数年住んでいるという人に対して、とっさに、 「では言葉はペラペラなのですね」とおっしゃる方がたまにいらっしゃいますが(挨拶のようなものなのかしら)、 英語や、アジア圏の例は知りませんが、少なくともフランス語とイタリア語に関しては、 数年で十分に喋れるようになった、というヒトに出会ったことがありません。 先日お会いした、大学の大先輩S氏(今は日本に居ますが在ミラノ30-40?年)は、 語学は、長くその国にいればいるほど、難しさの核心に迫ってゆき、終わることの無い学問であるとおっしゃっていました。 文法が異なるということは、ものの考え方のプロセスそのものが異なるのです。 日本語で考えたこと(無意識に、日本の風習と気質が溶け込んでいる)を、外国人に伝えるためには、広く浅くでも、その国と人々への理解が必要であると思います。 (旅行会話ではなくて、十分に喋れる、ということに対して。) 場合によっては、日本語で書いたことを、そのまま翻訳機にかけるように表現するより、 動詞も名詞も全く異なるものを選んで、全く別の文章にしてしまったほうが、 相手に、より伝わるということがあるのだと感じるのです。 ・・・うふふ、というのは、そのままイタリア語にすることが出来ずにいる、言い訳でもあるのだけれど。 蝉の声が聞こえなくなり、うだるような暑さが消え、にっぽんのひと夏が過ぎ去ってゆく瞬間におきる、 独特な心の動きを、あえて外国の言葉で、伝えることができるかしら。 語学がこれほど面白いものだとは、相変わらず驚くばかり。 そしてそれは、初めてデッサンの面白さを知ったときの驚きによく似ていて、 さらに驚いてしまうのです。 何が、何処へ繋がっているか、未知であることがいちばん、ドキドキするのです。