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sense of wonder
不思議さを感じることのできる、こころの不思議。
その謎を探るような日々の足あとを綴ります。
  • 2010年9月9日

パリにいると、「パリと比べて、日本はこう」とか、「日本と比べて、パリはこう」というような話題によく直面します。

例えば、「日本人は空気を読んで行動する事が多いけれど、パリの人ってそういうことあまりないよね」というケース。パリの人々は、相手の顔色を窺って考えて行動するということをあまりしません(日常生活の何気ない場面です。ビジネス等多くの場面は知りません)。しかしながら、サービス精神旺盛な人は沢山います。それは本人が望んで本能的に行動しているように感じます。そういう面で日本を見つめると、「日本は、少し窮屈ですね。」というような方向に、大体の話題が向いてゆくのです。


ただ、何かしらの「違い」を発見したり、そこから色々なことを学ぶのはとても面白いなぁと感じているのですが、そこから比較して、どちらかを批判的に、優劣をつけてゆく・・・というような雰囲気へ話題が向いてゆくとき、なんとなく違和感を覚えてしまうのです。


違うのはあたりまえで、たった数か所の違いを発見して、優れているか、劣っているかもしくは、「パリはこうで、日本はこう」というようなことはそんなに簡単に分かるようなことでも、言えるようなことでもないように思うのです、少なくとも私のように年月も少なく、経験も少ないならば・・・。数年でも、きっと少ないのでしょう。しかしながら、話題の方向性としてはついついそんなふうになってゆくこと、結構あるのです。何十年も過ごして居ても、そんな風に言わない人も沢山いらっしゃるようですが。


帰国土壇場で記していますが、だいぶ前からの、違和感でした。

吉本隆明氏

「言葉というものの根幹的な部分はなにかといったら、沈黙だと思うんです。

言葉というのはオマケです。沈黙に言葉という部分がくっついているようなもんだと解釈すれば、僕は納得します。

なにか喋っているときは、それがいいにしろ悪いにしろ、もう余計なものがくっついているんです。だから、それは本当じゃないと思います。」


こんなお話を読んで、ここに言葉の定義のようなものが出来ているなら、

”心の中に静かに、無意識に、自然に湧きあがってきたもの”は、「言葉の原石」のようなものなのかしら、と私なりに解釈しました。

口にした時点で、原石ではなくなってしまう。そういうことならば、画家は沢山の言葉の原石を持っていて、それが絵に現われるのでしょう。


そんなことを、アムステルダムのゴッホ美術館の中で感じました。大量のデッサン入りの手紙を彼の弟に送り、数え切れないほどの絵と文章でも表現しきれない、多くの言葉に溢れていた人なのでしょう。


当時、手紙・絵以外の便利なメディア・・・インターネット上のblogなどのようなもの、がもしもあったならば、彼はどのように表現して、どのような最期だったのでしょう。現代の、デジタル世界の便利さの傍ら、批判的な意見も多々あるなか、単純に「(闇サイト等)悪影響だから・・・」というような理由での批判にはなんとなく納得のいかないもの。むしろ、そういった悪影響を与えると言われているような場所に、なにか真実のようなものが隠れているのではないかしら。外側と繋がろうとする、何か。口には出来ない、言葉の原石のようなもの。見ないふりは、出来ればしたくはないですよね。














これはオランダ・アムステルダムのカフェです。

まだ日本では熱中症で死亡者が出ているほどに猛暑だと聞きました。 こちらには秋の気配が早くも訪れております。 もう少し、残暑があってもよいのに。 久しぶりにPCを開き、色々な方のブログなどをひと巡りしていたら、 「パリにはおしゃれなカフェが沢山あって素敵」というような、内容の日記を発見いたしました。 確かに・・・おしゃれなカフェは沢山あります。 ガイドブックに載っているようなカフェには確かに、素敵なパリジャン・パリジェンヌが集っています。 しかしながら・・・ 例えば私の住む12区には、有名でなくとも可愛らしい素敵なカフェがひしめきあう場所がありますが、 何故かお客さんはほとんど、「おやじ」(想定40~55歳ほど、私服で真昼からお酒を飲む)なのです 笑。 わらわらと、どこからともなく溢れて、湧き出てくるように見えるのです。 カフェに限らず、昼間のスーパーでも見る事が出来ます。 先日、買い物へ行った時の事、レジはひとつしか空いていなくて長蛇の列が出来ておりました。 ふと前を見ると、私以外全員「おやじ」だったのです。 (おじさま、おじいさまという雰囲気の人は含みません。) 日本では考えられない光景だと思います。 いったいどうしてこんなに溢れているのでしょう。 初めから、ずっと12区周辺で生活をしていたせいもあり、 こんなものなのかしら、ヨーロッパのカフェって、くらいにしか感じていませんでした。 しかしながら、先日行っていたオランダのカフェ、 いくつか入ったのですが「おやじ」たる年齢・風貌の人々が「湧き出ている」ような雰囲気はどこにも見られませんでした。 (もちろんパラパラとは居ます。) 思えばスイス、スペイン、ブルガリア、ルーマニアなど、 多くはないけれど、いくつか目にした街の中のカフェに、 パリのような光景を見た事があまりないのです。 そういえば、郊外の「chars」という街のカフェにmoと行ったときも、 私たち以外は「おやじ」が増殖していっていましたが、 そのうちの一人が息子を連れてきていました。 多分、10歳前後だったでしょう。 驚いてしまったのは、すでに10歳ほどの子供が早くも「おやじ」的な風貌を持っていたという事です。 自分の「おやじ」と同じような歩き方をして、馬券をチェックしてみたり、 やる気のなさそうな雰囲気でバーの高いカウンターに肘を乗せながらボーっと競馬を見る。 その後ろ姿、なんとも周りのおやじの中に自然に溶け込んでいるのです・・・。 あぁ、こんなに若くしておやじデビューだなんて・・・と私とmoはぽかんと見つめておりました。 外国から戻ると、自分の住む街には、異常発生しているのではないかしら、と思えるほどの、 おやじの多さに改めて違和感を感じてしまうのでした・・・。

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