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sense of wonder
不思議さを感じることのできる、こころの不思議。
その謎を探るような日々の足あとを綴ります。

パリに1年ほどいて分かったこと、それは「パリは1年ではよくワカラン」ということ。というわけで、2年目も・・・と言いたいところですがそのような予定はありません。

最後のトドの会(画家のW氏宅で、W氏による暖かいカレーを皆で食べるの会)の時にSUちゃんに、「パリの一番好きなところってどこ?」という、直球の質問を頂きました。そう聞かれて、よくワカランではちょっとどうかと思ったので少し考えてみる事に。

どの場所が好きかしら、ということならばサクレクールやモンマルトルあたり、はとても好きです。そして住んでいたバスチーユ付近が一番好きかしら。しかしながら、SUちゃんの質問は場所というよりもパリのどのような顔、雰囲気が好き?というものでした。

あくまで日常の風景からですが、良くも悪くも、人と人との距離感が近いところ、かしら。彼らは、お互いが人間らしい欲望や弱さを持っているという事を、無意識に共有しているように見えるのです。


例えば・・・


スーパーのレジで仕事をしていようと、疲れていれば全くやる気のない態度に、友人がお客として現れれば、どれほど並んでいようと関係なく会話がしたいのでする。


メトロの中で、カラオケ音源で全く上手ではない大声で歌って小銭稼ぎをする。


メトロの改札を飛び越えて無賃乗車する人を、駅のインフォメーションの人は見ているだけ(注意する事は、自分の仕事ではないのでしたくない)。


あまりに面白くて嬉しい事があったので、突然知らない人でも話しかける。


いつでもどこでも、満員電車でもキスをする。


自分の話ばかりする。自分が楽しいと、皆も楽しいと思っている。自分がパニック状態だと、周りの話は聞こえない。


狭い通路で後ろに人が沢山つかえていても、マイペースな歩調を変える気はない(気づかない)。




まだまだ色々ありますが、これらの状況に対して特に驚いたり違和感を抱いたりしないということが、ただの「慣れ」ではなくて、ヒトの中に本来ある欲望や弱さを原因として表に現れる行為のひとつとして、「ありえない!」ということにはならないのでしょう。別に許し合っていると言う綺麗事ではなく、納得出来なければ、何故そのようなことで?と思う様な事でもむきになって怒りだす人もいます。あからさまに皮肉をぶつけてくる人もいます。それさえも、人間の自然な行為として白い目で見るようなことは無いのですね。


しかしながら、私はこういう本能的に「人間らしさ」を共有しているあたりに、人と人との距離感の近さを感じるのです。時としてそれはこちらにとって大きなストレスになることもあり、笑ってすまされる様な事ではない場合も多々あります。でもこの距離感、パリの顔の中ではとても好きなところかしら。う~ん、それほど好きでもないかしら 笑。 


・・・やっぱり、よくワカラン。

  • 2010年9月9日

パリにいると、「パリと比べて、日本はこう」とか、「日本と比べて、パリはこう」というような話題によく直面します。

例えば、「日本人は空気を読んで行動する事が多いけれど、パリの人ってそういうことあまりないよね」というケース。パリの人々は、相手の顔色を窺って考えて行動するということをあまりしません(日常生活の何気ない場面です。ビジネス等多くの場面は知りません)。しかしながら、サービス精神旺盛な人は沢山います。それは本人が望んで本能的に行動しているように感じます。そういう面で日本を見つめると、「日本は、少し窮屈ですね。」というような方向に、大体の話題が向いてゆくのです。


ただ、何かしらの「違い」を発見したり、そこから色々なことを学ぶのはとても面白いなぁと感じているのですが、そこから比較して、どちらかを批判的に、優劣をつけてゆく・・・というような雰囲気へ話題が向いてゆくとき、なんとなく違和感を覚えてしまうのです。


違うのはあたりまえで、たった数か所の違いを発見して、優れているか、劣っているかもしくは、「パリはこうで、日本はこう」というようなことはそんなに簡単に分かるようなことでも、言えるようなことでもないように思うのです、少なくとも私のように年月も少なく、経験も少ないならば・・・。数年でも、きっと少ないのでしょう。しかしながら、話題の方向性としてはついついそんなふうになってゆくこと、結構あるのです。何十年も過ごして居ても、そんな風に言わない人も沢山いらっしゃるようですが。


帰国土壇場で記していますが、だいぶ前からの、違和感でした。

吉本隆明氏

「言葉というものの根幹的な部分はなにかといったら、沈黙だと思うんです。

言葉というのはオマケです。沈黙に言葉という部分がくっついているようなもんだと解釈すれば、僕は納得します。

なにか喋っているときは、それがいいにしろ悪いにしろ、もう余計なものがくっついているんです。だから、それは本当じゃないと思います。」


こんなお話を読んで、ここに言葉の定義のようなものが出来ているなら、

”心の中に静かに、無意識に、自然に湧きあがってきたもの”は、「言葉の原石」のようなものなのかしら、と私なりに解釈しました。

口にした時点で、原石ではなくなってしまう。そういうことならば、画家は沢山の言葉の原石を持っていて、それが絵に現われるのでしょう。


そんなことを、アムステルダムのゴッホ美術館の中で感じました。大量のデッサン入りの手紙を彼の弟に送り、数え切れないほどの絵と文章でも表現しきれない、多くの言葉に溢れていた人なのでしょう。


当時、手紙・絵以外の便利なメディア・・・インターネット上のblogなどのようなもの、がもしもあったならば、彼はどのように表現して、どのような最期だったのでしょう。現代の、デジタル世界の便利さの傍ら、批判的な意見も多々あるなか、単純に「(闇サイト等)悪影響だから・・・」というような理由での批判にはなんとなく納得のいかないもの。むしろ、そういった悪影響を与えると言われているような場所に、なにか真実のようなものが隠れているのではないかしら。外側と繋がろうとする、何か。口には出来ない、言葉の原石のようなもの。見ないふりは、出来ればしたくはないですよね。

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