昨日、夕日のうつくしい帰りのみちに、ヒグラシが一匹、
もうすぐやってくる夏よりほんのすこうし早く、呟きのような細い声を聞かせてくれたのでした。
途切れてしまいそうな、ちいさなちいさな旋律が、広大な緑の庭園に響いて、空がいつもより大きく見えました。
母校の美術大学にてお仕事をさせていただいているのですが、ちょうど夕日の美しいころ、帰宅の時刻。
そばには大きな庭園があって、背の高い樹林が広がり、まるで森です。
カナカナカナ・・・という愛らしい声、なんとも二年ぶりに聞きました。
パリでもミラノでも、蝉の声を聞かずに夏が過ぎ去ってゆきましたが、名のとおり、日が暮れてゆくドラマを語るように鳴くのですね。
ちいさな声は、日常に沢山溢れているように思います。
膨大な情報が溢れる現代において、声を大にして語られる力強い発言は、魅力的に感じることもありますが、
囁くような息吹の中から大切な声がするときは、素直に聞くことできたら、と思います。
それは、自分の中にある「思い込み」かもしれないことに気付くこと、かたくなに「思い込み」を通そうとしないこと、シンプルに聞くことだと思うのです。
むつかしいことではなくて、これが、とても面白いことだと感じています。
ミラノにいたときに、イタリア人のことを知りたくて、偏見や日本的な(日本では当たり前な)見方、これまでの経験で出来上がってしまった考え方を一度お休みさせて、
出来るかぎりシンプルに相手を見つめることを意識していたように思います。
経験から見つけた考えは、一度お休みさせたからといって、心から消え去ることは無い、限りのあるハードディスクとは違うものだと、帰国して二ヶ月とすこし経って感じております。
sense of wonderの世界、終わりの無い旅のよう、現実の世界に起きていることは、不思議なことばかりだわ。
美しいことも、悲しいことも、狭いかもしれない型に収めるように、見つめてしまってはいないかしら。
Comments