街へ出ても、普段灯りにまみれている場所が、ほのぐらい景色に。
線路の向こう側の集合住宅は、計画停電によって全ての灯りが消えて、巨大な、不気味な影に。
電車は止まって、店は閉まって、スーパーには何も陳列されていない棚がずらり。
多くの人が直面した事の無い現象に、それぞれが知恵を出し合って、毎日が大きく変化しています。
仙台にいる友人の安否が分かるまでは、随分と不安状態で、どのような情報でも何か手掛かりになればと、テレビ、ネット上を精一杯探しました。
また、気仙沼市にお子様がいらっしゃる友人は、テレビに映る被災地の映像を録画して、何度もその中にわが子がいないかと必死で探したそうです。
マスコミを批判する声がとてもあがっていますが、人によっては、ささいなカメラの映像も、生死に関わる重要な情報となることもあるのですよね。
twitterには、様々な情報がリツイートされてゆき、「もっと、多くの人に届いたら」という想いで溢れています。
正しいもの、正しくないかもしれないもの、不謹慎と思われてしまいそうなもの、色々と混在していて、その裏側にどのような想いがあるのかは、
読んだヒトが自分でしっかり考えて、理解するしかないのですよね。
例えばその情報が間違っているならば、責めるのではない方法で、知恵を使って正しくしてゆくしかないと思うのです。
表現自体を、押し付けるように批判してしまっては(たとえ軽はずみ、と感じても)、伝わるものも伝わらなくなってしまうと思うのです。
スーパーの売り場を歩いていても、過剰に多くを買っているヒトは、そういないのです。必要最低限を買っている人の方が多いのです。
品が無いのは、原材料がない、または物流がストップしている事が原因のこともあるでしょう。
様々な家庭や事情があり、それはふと見た目では当然分かるはずはなく、誰もが精いっぱい考えて行動している事でしょう。
巷に溢れた多くの言葉などを鵜呑みにして、浅はかな批判を、何を基準にできるのかしら。
原発のことで、あまりしっかりした情報や知識も無く、「不安」というだけで関西の方へ避難される方も多いみたい。
個人での、ガソリンや交通機関、輸送機関などを使う事は、緊急でなければ避けるべきなのだけれど、
それでもどうしても、不安が募って行動に移すヒトを、責める事が出来るかしら。
いつでも想うこと、、、批判することは簡単なのです。
そして、言葉の刃で批判をすると、相手の思考回路を停止させてしまう可能性もあります。
伝えようと、言葉や絵や、音etcを探して、ひたむきに表現しているヒトが私は好き。
そういうわけで(?)、インフォメーション。
本日、後輩の素敵な展覧会へ行ってきました。
「金谷絵梨初個展「叢ーくさむらー展」
19(土)12~19時
20(日)12~17時
23(火)~4/2(土)」
ブックギャラリーポポタム
被災地に関する多くの映像や情報によって、心がとても疲れているヒトは是非行ってみて下さい。
和紙の、静かな優しさが空間に溢れています。
恩師と、後輩たちとギャラリーへ向かう事が出来て感謝。無意識に、心に負担がかかっていたようで、今夜は少し楽になったみたい。
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