ここのところ、ミラノの空は柔らかい雨を降らせ、ほんのたまに太陽が顔を出すのだけれど、
私は雨の中を歩くことも、部屋の中から眺めたり、音を聞くこともとても好きなので、
こころが落ち着く日々が続いております。
今日でちょうどミラノ2ヶ月。愛するヨーロッパの夜空を、東を向いた8階の大きな窓から眺めると、
深い深呼吸をしたあとのような心の深いところで、ここにいることを実感する事が出来るのです。
風景はどのような瞬間でも、ほぼ無意識に通り過ぎている何気ない場所でも、こころの中に刻まれてゆくものだと思うから、
毎日の生活の中で目にすることは、ヒトの精神にとても大きな影響をあたえるのでしょう。
柔らかいオレンジのあかりがぽつぽつと灯りだして、深い青い夜の世界がやってくると、いつもそう想わずにはいられません。
ものを創ること、風景を構想すること、建物を建ててゆくことは、設計者が培ってきた様々な技術+心に刻まれた様々な風景がとても大きく影響してしまう・・・
そのループが延々繰り返されてゆくから、本当に大きな責任があるのだと、随分昔からそう思ってきたけれど、相変わらずそう思います。
しかしとても時間の流れが速いところでは(本当は多くはないと思うのだけれど、何故だかそういうところが、とても多く・・・あるように感じる)、
あっという間に風景をつくりかえたり、軌道修正が効かないまま、突き進んでゆくこともあるので(誰か、特定のヒトのせいではないと思う)、あれ、おかしいな?というポイントに、出来る限り素直でいたいと思うのです。
ところで気になる木。
そういうcmがあったけれど、あのようにあからさまに気になるようなものではないのです、毎日窓から見える、というだけの、何処にでもあるような普通の木なのだけれど。
気にならないといえばならないのだけど、一度気にしてしまうとずっと気になってしまうの。
中途半端なボリューム、立ち位置もしっくりこない、あまり可愛げのない歪な枝の垂れ具合・・・どこにでもある地味なたたずまいで、誰も気にとめないと思うのだけれど、
何故か気になってしまうの。不思議ね。
周囲の木とは種類が異なって、葉の色も異なって、ポツンと一本立っているからかしら。
それだけではないかもしれないけれど。
誰か、一本の木だけで物語がどこまでも広がって完結してゆくおはなしを、知らない?
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